2015年9月18日金曜日

小椋冬美先生のふわふわした丸いもの

先日、佐藤真樹先生について書いたせいで当時の作品が懐かしくなり、小椋冬美先生の『リップスティック・グラフィティ』を本棚から引っ張り出して読み返しました。多くの少女マンガをせっせと買い集めた子ども時代、「集める」という行為にハマり、好きになったマンガ家のコミックスはとにかく何でも揃えていましたが、社会人になって転居を繰り返すうちに、持ち物を整理するようになりました。リボンで描かれていたマンガ家では、小椋冬美先生と陸奥A子先生が、一人暮らしのアパートの押入れの中にいつまでも残っていましたが、結局、今でも手元にあるのは小椋冬美先生の『リップスティック・グラフィティ』の前後編2冊と『ごめんねダーリン』の計3冊です。もちろん、陸奥A子先生の『こんぺい荘のフランソワ』や『天使も夢見るローソク夜』『まぼろしの銀の匙』など、どれもとても素敵なお話で大好きでした。今思い出すと何で手放したのか後悔するばかりですが、山ほどの後悔を拾って眺めても仕方がないので、今あるものの話をします。

小椋冬美先生は、リボンからヤングユーやその他の雑誌へと活躍の場を移し(フリーになったそうです)ヒロインも高校生から大人の女性になりました。『オリーブの木陰』や『天のテラス』までは作品を集めていましたが、1995年を過ぎると私のマンガ離れが始まり、それきり読まなくなりました。最初の会社を辞めて、一人暮らしをやめて実家に帰り、バイクに乗ってツーリング仲間も出来たし、そういう環境の変化もあって私の中でマンガが占める位置が大きく変わった時期でした。収集はやめても、30歳を過ぎるまではマンガは残してありました。多分、心理学の勉強を始めて心の中が整理できたことが大きかったのかもしれません。30歳を過ぎて自分が持っていたマンガの3分の2は処分しました。その時に『リップスティック・グラフィティ』と『ごめんねダーリン』を手元に残した理由は、わかりません。『Mickey』だって『さよならなんていえない』だって大好きだったのに…。

『リップスティック・グラフィティ』では、ヒロインにこれといって大きな問題が目の前に立ちはだかっているいるわけではなく、ただ坦々とした生活の中でささいな出来事によって心に波が立つヒロイン街子と、街子の一見対局にいるようなクラスメイト神子が少しづつ分かり合っていく様子と、二人の少女の始まったばかりの恋心を、センスある会話と雰囲気ある絵で描き出しています。『Mickey』ではスケートが『さよならなんていえない』では恋心が前面に出ているのとは少し違うイメージを持つのです。また、ヤングユーやmimiで小椋冬美先生が描かれた、描き込み過ぎないおしゃれな大人のイメージを持ったマンガとも明らかに違います。『リップスティック・グラフィティ』はヒロイン街子のモノローグが印象的です。小椋冬美先生の作品は、この後、作風が大人っぽくなり、モノローグも必要最小限に減ります。マンガを評論する方が少女マンガに心理描写として多用される「花」と同様「ふわふわした丸いもの」が心情の描写として描かれることを指摘していましたが、その「ふわふわした丸いもの」、私には舞い散る花びらや葉っぱに見えますが、もちろん現実に花びらが空中にふわふわ浮いているのは桜の時期位なものなので、効果線と同じく心理描写の一つではありますが、これが『リップスティック・グラフィティ』には多用されています。そして、その描写が少女マンガ”らしさ”を際立たせ、読み手にロマンティックな雰囲気を与えているような気がします。また、細くスラリとした手脚に制服のスカートがふわりと広がっているスタイル画のような少女の立ち姿が所々に描かれ、これも独特の雰囲気を醸し出しています。

2年後に描かれた『ごめんねダーリン』は、このスタイル画のような少女の立ち姿は、連載開始時の扉絵に描かれた位で、(これはヒロインがパンツにエプロン姿の家政婦という設定のせいもあるかもしれません)「ふわふわした丸いもの」はラストシーンに出現するのみです。『リップスティック・グラフィティ』以前の小椋冬美先生は、田渕由美子先生や陸奥A子先生を評する際に使われるカテゴリ「乙女チックラブコメ」の範疇なのかもしれません。要するに、私が乙女チックラブコメを潜在的に支持し、しかし、陸奥A子先生などの王道的作品は意識的に排除した結果として、乙女チックラブコメの香りを残す『リップスティック・グラフィティ』と『ごめんねダーリン』が残されたということなのでしょうか。

ともかく、『リップスティック・グラフィティ』と『ごめんねダーリン』は今も私の書棚に収まっています。こうして時々読み返すと、そこに描かれた透明感ある少女たちの心に触れて、何か心地よい思い出のような気持ちに浸れるのです。
2015年9月17日(金)